参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】 2024.9.20 小林 勝

  2024.9.19 読売新聞 

福岡復活V ロス五輪へ

痛めた左足首、前橋のはり 治療院で治療

1983年福岡国際2時間8分52で優勝

心で走る 18  

瀬古 利彦 せこ としひこ  

 

1年以上かかった故障が癒える(いえる)と、体の芯から疲れが抜けて、心身共にリフレッシュされていました。

本格的な練習を再開して2か月ほどの1982年10月には、2万メートルで 5829秒6の日本記録をマーク。走れる喜びいっぱいで、大みそかには東宮御所の外周3・3キロを21周。約70キロを走り込みを悠々(ゆうゆう)とこなしました。そこで、83年2月の東京国際をマラソン復帰レースに決めました。

中村監督は当初、準備期間も短いため、同時期のローカル大会も考えていたのですが、奥さんの道子さんが「瀬古はそんな小さな土俵で走る器じゃない」と言い、監督も東京出場を決断したのです。

1年10か月ぶりのマラソンは、私のベストレースです。レースはジュマ・イカンガー(タンザニア)が世界記録ペースで引っ張り、残り4キロでロドルフ・ゴメス(メキシコ)が一気にスパート。逃げるゴメスを40キロ手前で一気に抜き去ると、2時間8分38秒の世界歴代4位で優勝を果たしました。当時の世界記録まで 25秒。展開次第では世界記録も出たでしょう。ロサンゼルス五輪の代表選考会となる12月の福岡国際へ、やっと間に合ったとホッとしました。

夏場も順調に走り込み、9月の2万メートルで 5818秒1の日本新。福岡国際までひと月を切って左足首を痛めました。3週間前の20キロレースは17キロで棄権。そのピンチを救ってくれたのが鍼治療(はりちりょう)小林 尚寿(こばやし ひさとし)先生でした。前橋市の先生の元(下 もと日間走らず治療に専念。すると痛みが消え、疲れも抜け、一気に調子が上向きました。大会10日前、練習の20キロを 5830秒で楽に走りもう大丈夫とだと確信しました。

《ロス五輪代表選考会の83年福岡国際には、当時の世界記録保持者サラザール(米)、イカンガー、五輪3連覇を狙うチェピンスキー(東独)ら海外勢に、宗茂、猛兄弟、喜多秀喜、伊藤国光らそうそうたるメンバーがそろった。》

レースは39キロ、5人ほどの先頭集団からイカンガ―が飛び出し、ついたのは私だけでした。中村監督からはスタート前、「ラスト100メートルの勝負になる」と言われていました。しかし、できれば早く勝負をつけたい。40キロから何度か仕掛けると、そのたびにイカンガーもペースを上げます。相手の力強い走りを見て、背後につくことを選びました。

競技場へ2人で戻った瞬間、「監督の言った通り、ラスト100メートル勝負だ」と決めました。確実に勝つためにはそれしかないと。最後の直線で全ての力を爆発させ、イカンガーを一瞬で抜き去り、勝利を確信しました。「ああ、やっと本当に五輪に行けるんだ」。2時間8分52秒。深い安堵(あんど)の想いをかみしめ、ゴールテープを切りました。 

 (元マラソンランナー)

 

 参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】 2024.9.20 小林 勝

  2024.9.19 読売新聞 

福岡復活V ロス五輪へ

痛めた左足首、前橋のはり 治療院で治療 

1983年福岡国際2時間8分52秒で優勝

 

心で走る 18  

瀬古 利彦 せこ としひこ