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【参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】 2024.9.20 小林 勝
2024.9.16 読売新聞
モスクワ五輪射止める
1978年福岡国際、2時間10分35秒で優勝
マラソンでの粘り、諦めないことの大切さを痛感
心で走る 15
瀬古 利彦 せこ としひこ
早稲田大3年の1978年福岡国際マラソンで初優勝しましたが、正直なところ「勝たなきゃよかった」と思ったことが何度もありました。
当時の日本のマラソン界は、入賞なしに終わった76年モントリオール五輪から再建が急がれていた時期。そこに現れた新星として注目を浴び、ずしりとプレッシャーを感じるようになりました。
すると、練習でも余計な力が入ります。モスクワ五輪代表選考会となる76年の福岡国際に向けても、ほぼ順調に練習を重ねるのですが、前年と違って気持ちに余裕がありません。福岡国際の2週間前には、20キロで 58分7秒1の日本記録をマークしますが、逆に調子が上がりすぎているのではと不安になりました。
レース8日前の土曜日、通常は 5000メートルを1本走ります。しかし、中村清監督と「練習が足らない。少し調子を落とした方がいい」という意見で一致し、2本走ることにしました。まさにプレッシャーのなせる業(わざ)でした。20キロで日本記録を作り、疲れを取るべきところ、逆に疲れをため込む選択をしたのです。
12月2日の大会当日、スタートラインでも体が重く、「これはまずい」と思いました。ラッキーだったのは、モントリオール五輪金のワルデマル・チャンピンスキー(東独)ら海外勢や、宗茂、猛兄弟がスローペースになったこと。集団でじっと我慢をしていると、30キロ過ぎたあたりから体が動いてきました。
ただ、40キロで宗猛さんが仕掛けるとついてはいけません。茂さんも猛さんに追いつき、30メートルほど離されると「負けた」と思いました。それでも、日本人 3位なら五輪に行けます。諦め(あきらめ)と安堵(あんど)の混じった思いで追走していると、兄弟が相次いで振り返りました。「2人もきついんだ」と力がわき、猛追(もうつい)して再び兄弟を捉え(とらえ)ました。
3人並んで平和台陸上競技場になだれ込むと、大歓声に迎えられました。今度は「勝った」と思いました。最後のスピードには自信がありましたから。残り 200メートルでスパート。2時間10分35秒で2連覇を飾り、モスクワ五輪代表を射止めました。2位 茂さんと2秒差、その3秒後に 猛さんという激戦でした。
このレースを通じ、マラソンでの粘り、諦めないことの大切さを痛感しました。マラソン 15戦10勝の土台をなった一戦と言っていいでしょう。
《日本陸連は 79年12月8日の臨時理事会で、瀬古、宗茂、猛兄弟を翌年のモスクワ五輪マラソン代表に決定。9日の読売新聞は「史上最高のマラソン・トリオと評した。」》
中村監督と作った「4年計画」を描ききり、最後の箱根駅伝2区は 2年連続区間新。監督車の中村監督から早大校歌「都の西北」を歌ってもらった時は、涙しました。「よし、モスクワでは金メダルを狙うぞ」と、初の大舞台へ向け決意を新たにしたのです。
(元マラソンランナー)
【参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】
2024.9.16 読売新聞
モスクワ五輪射止める
1978年福岡国際、2時間10分35秒で優勝
マラソンでの粘り、諦めないことの大切さを痛感
心で走る 15
瀬古 利彦 せこ としひこ
1979年
福岡国際マラソンで 宗 茂(右)、猛(中央)兄弟と
競技場になだれ込んだ