参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】 2024.9.20 小林 勝

  2024.9.13 読売新聞 

「練習が8割」福岡初V

マラソンは素質2割、練習8割

箱根駅伝、花の2区で区間新記録

心で走る 14  

瀬古 利彦 せこ としひこ  

 

回目のマラソンとなった1978年の福岡国際は、私のベストレースの一つです。

夏の欧州遠征では、1万メートルで当時の日本歴代2位の 275161をマーク。「自分は世界記録まであと 30秒まで来たんだ」と思うと、その後のきつい練習にも、意欲的に臨めるようになりました。

《当時の男子1万メートル世界記録はヘンリー・ロノ(ケニア)の 272247。日本記録は鎌田俊明の 274863だった。》

朝練習では10キロを普通に走れるようになり、20キロのタイムトライアルは楽に60分でこなせました。多い日には1日 55キロの走り込みにもチャレンジし、課題としていたスタミナにも、確かな自信がも持てるようになりました。

マラソン練習を重ねて実感したことがありました。高校時代、自分は本当に素質だけで走っていたんだと。中距離は素質7割、練習3割でも日本のトップまで行けますが、マラソンは素質2割、練習8割。42195キロを走りきるには、練習をどれだけ積めたかが、大きなカギを握るのです。78年福岡国際では、その大事な「8割」がバッチリ出来ていたのです。

スタートすると、同年2月に世界歴代2位の記録を出した 宗茂さんが飛び出しました。私は中村清監督の指示通り、ビル・ロジャース(米)ら外国勢の後ろでじっくり待機です。30キロ過ぎ。まだ茂さんは落ちてきません。集団の中には、欧州遠征で親しくなった 喜多秀喜さんがいました。

そこで「一緒に行きましょう」と声をかけました。喜多さんは一瞬、驚いたような顔をしましたが、2人で集団を抜けました。2キロほどで喜多さんは離れていきましたが。36キロ過ぎには茂さんを抜き去り、前年出した自己記録を4分以上更新する2時間1021秒で優勝しました。

《福岡国際での日本人優勝は8年ぶり。2位 喜多、3位 宗茂の日本勢による表彰台独占は大会初だった。1年7か月後に迫ったモスクワ五輪へ光をともし、翌日の読売新聞は「若手トリオ、モスクワへGO」の見出しを掲げた》

このレース、一度も苦しさを感じませんでした。楽で楽で、マラソンってこんなに楽しく走れるのかと。15回走ったマラソンレースで、最も自由自在に走れたレースでした。

「宗兄弟のどちらか一人に勝つ」という目標どころか、ロジャースなどの当時の有力海外勢も破って優勝。まだ3度目のマラソンで、正直ちょっと出来すぎでした。

そして、約4週間後には3度目の箱根駅伝です。マラソンの疲れはあっても、もう2区(244キロ)の距離は怖く(こわく)ありません。区間2位に3分以上の差をつける区間新記録で、1位で3区につなぎました。早稲田大がトップでたすきリレーをするのは25年ぶり。早大生の快進撃、メディアからの注目は高まります。 

 (元マラソンランナー)

 

 参照・引用 読売新聞_時代の証言者・心で走る_瀬古利彦】

 2024.9.13 読売新聞

 

「練習が8割」福岡初V

マラソンは素質2割、練習8割 

箱根駅伝、花の2区で区間新記録

 心で走る 14

 瀬古 利彦 せこ としひこ 

 

1978

福岡国際マラソンの36キロ過ぎでトップに立つ(右)